教 会 報
No.196
2000年09月03日
いわゆる聖母マリアの特権について
主任司祭 佐久間 彪
以前は、マリア様は私たちと違うお恵みをお受けになった方である。つまりマリアの特権と言われ、ラテン語でプリーヴィレギア、英語でプリヴィレッジ、「被昇天」と「無原罪の御宿り」、それがマリアの二つの特権であり、我々一般の者は及びもつかない特権である、と言うふうに聞いていました。 現在カトリック教会の中で、現代的なセンスを持ち合わせているような人びとは、その理解の仕方はちょっと違うのではないかと感じています。 マリアに特権があるわけではなくて、マリアの受けた恵みは、私たちの受けた恵みをマリアの姿によって明らかにしている、ということである。マリアだけが受けた恵みではなくて、キリストを信じる者は皆、このマリアのような恵みに浴するのである、ということです。
「無原罪のお宿り」は、カトリック信者も時々間違えるのですが、マリア様がイエズス・キリストをお腹に宿されたときに、マリア様が汚れのないかたであったと言うことではありません。 「御宿り」は聖母ご自身のことです。 マリア様という方がお母様の体内に宿られたときに、マリアには一切の汚れがなかった。通常の人間には免れることが出来ない原罪、アダム以来の罪を背負ってうまれる筈であるが、マリアはそれからも免れていた。清くこの世に生を受けられた。そういうことを「無原罪の御宿り」というのです。
ここをよく考えると、なんだ私たちもそうじゃないか、ということに気がつくのです。 つまり私たちもみんな原罪がないのです。なぜなら、洗礼を受けたときに原罪から清められたからです。ですからマリアの「無原罪の御宿り」というのは、キリスト信者が洗礼によって得た恵みの象徴でもあります。
「被昇天」も同じで、マリア様もそのご生涯の終わりに体も魂も天に上げられたと表現していますが、これは聖書に書いてあるのではなく、外典にもないのです。伝承ではマリア様がお亡くなりになったことを記念する日があった、カトリック教会では今日ありませんけども、ギリシャ教会いわゆる東方教会では、「マリア薨去」つまり聖母が亡くなられた日を記念する祭日があります。 カトリック教会ではそれを「被昇天」として祝うようになったのです。 被昇天というのは、要するにキリストの復活にあやかって神のうちに生きること、キリストと共にマリアも昇天なさったということなのです。
これもよく考えてみると私たちのことなのです。 私たちは洗礼を受けてキリストの復活にあやかり、パウロの言葉にあるように、そして何回もお話ししたように、すでに復活しており、神の生命にあずかっている。このことを私たちは、「キリストの復活」、「昇天」と呼び、キリストの復活・昇天にあやかっていることを、「マリア様の被昇天」という形で象徴的に言い表そうとしているのです。
少なくとも今日、そのように理解しようとしております。
聖母マリアだけが特権に囲まれている方ではなくて、マリアの特権とは、私たちの受ける恵みのことであって、実際は特権といわないほうがいい。ですから最近はあまりそういう言葉を皆様お聞きにならないと思います。マリア様ご自身が『マグニフィカト』と呼ばれるマリアの賛歌の中で、「身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださった」と言っておられますし、自分はそんなに特権に囲まれた人間ではない、とはっきりと自覚しておられます。さらに、「神はその力を現し、思いあがる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座からおろし、見捨てられた人を高められる。飢えに苦しむ人はよいもので満たされ、おごり暮らす者はむなしくなって帰る」と続けれおられ、つまり、ほかならぬ私たちの代表として感謝の歌を捧げておられる。マグニフィカトをカトリック教会では私たちの歌としています。
実は、マリア様を敬うという点で、カトリック教会に批判的なプロテスタントの方たちでも、マグニフィカトは聖書の中の賛美歌ですから大事にしています。宗教改革者であるマルティン・ルーテルも、『マグニフィカト』という名で、聖母を称える書を著しています。
カトリックがあまりにもマリア様を大切にしすぎている、と批判されますが、批判が生まれるのも無理なからぬことがあります。それは私たちがマリア様に向かって手を合わせるものですから、マリアを拝んでいると思うからです。でも私たちが手を合わせるのは、別にマリア様を女神だと思って拝んでいるわけではない。拝んではいけないのです。私たちが礼拝しているのは神だけであって、マリア様に手を合わせるのは、私たちの素朴な敬意の念を示すことにほかなりません。
このようなマリア様の姿を見て、私たちは神の御手の中にあるのだとそう信ずるときに、世の終わりを考え、すべては神の永遠のご計画の中にあると気づくようにと、マリアの姿によって示されているのです。・・・・・・それはどういうことかというと、実際にいつか世の終わりが来る、ということよりも、私たちのさまざまな悩み、苦しみ、悲しみ、恐れという人生に必ずつきまとう陰の部分、或いはマイナスの部分も、神の永遠のご計画の中で実は意味があるのだということを、示そうとしているわけです。この人類の歴史の中のさまざまな出来事、いわゆる不条理と言いましょうか、理屈で適わないこと、たとえば死ぬことも、神ならぬ身であれば当然なことであり、少しも不条理なことではありません。死ぬことは当たり前のことなのです。
しかし、死の際になぜ苦しまなければならないのか、なぜ恐れなければならないのかということ。或いは、なぜ小さな子供まで死ななければならないのかとか、戦争、天変地異、そのほかさまざま不条理としか思えないこと、それらもすべての神の永遠のご計画の中にあり、マリアの姿によって示されるように、キリストにあやかってさまざまな困難を経ながらも、キリストの十字架と復活にあやかって、永遠の生命に生かされているのである、そのことを示そうとしているのだと思うのです。
この世のさまざまな矛盾の中にあって聖母マリアの姿を見、そこに神の永遠のご計画を読みとり、マリアのようにキリストにあやかって、神の内に生かされていくのである。そう信仰によって悟らなければならない。ちょうどこの八月十五日はわが国にとっては敗戦の記念のときであり、戦争という私たち自身がどうしても理解しきれず、また未だに克服しきれないでいるこの状況の中で、私たちはあくまでもパウロの言うように希望を持ちつづけ、そして絶望という誘いに負けてはならない、そう心から自分にいいきかせなければなりません。
神が私たちの信仰を強め、私たちの希望をさらに深めて下さいますようにと、心から願います。私たちの主・イエズス・キリストによって、アーメン。