イエスの力を祝う復活祭は4月5日。春分の日の後の満月の次の主日。イースターが毎年移動するのは天地創造の神秘を忘れないためです。週日は人が働き、楽しむための日。日曜日は 天の計らいを想い起こし、神のお陰で生活できる現実を知り、世事に埋没せず、主に心を向ける祝日です。
初めて 主の声を聴き入れたアブラハム、初めて 神の現れのしるしを観たモーセ。その時、一人でした。聖人たちも主の教えを信じ、召し出し(呼び声)に応える決意を固める時は「ひとり」の人の意思です。
「神の声を聴く」とは、具体的にどのような状況下、環境でしょうか? 「いつ」でしょうか? 一瞬 ? 長い悶々とした葛藤の末に ?
アブラムは、当時の男として絶望の中にいました。その時「来年の今頃は 子供を授かっているでしょう」と信じられない言葉を旅人から言われ、その通りになりました。
モーセは子供の命を守りたい実の親に捨てられた子供でした。しかし、幸いにもファラオの娘に拾われました。大人になり、いじめにあっている同胞を守るため、エジプト人を殺めてしまい、外地に逃げていました。その地で、羊の世話をしている時、燃える芝を見ました。しかも、その芝は燃え尽きず、燃え続けるではありませんか??? モーセが茫然と見つめていると「モーセ、モーセ」と聴こえるではありませんか・・・。こうして モーセは先祖の神を知り、同胞を外地での隷従状態から救い出す行動に入り、最後には神の民としてカナンの地での生活が始まりました。
暫く発展が続き、ダビデ・ソロモンの大国になり、軍事・経済・知識と知恵・文化に置いても世界のトップになりました。一方で倫理・経済・文化面で贅沢三昧に陥り、子孫のしつけ、教育は零落し、結果として再び、外国支配に服することになりました。
その時、登場したのがヨシヤ王です。彼はモーセの律法の精神に立ち返り、神々の中の主に出会い、天地創造の神を信じる者(複数)の協働記憶遺産であるモーセの律法に国家再生の道を求めますが、聖書は神と人関わりの歴史を語り、国家の歴史を書いたのではないということです。
「聖書」は神と人の愛の関わりを具体的歴史環境に則して伝える文書です。「出エジプト」の時代は、新しい天地で新しい時代をつくる草創期とすれば、「申命記」は衰退した環境から再度立ち上がる精神を励ます説教(メッセージ)です。
教皇フランシスコは就任以来、司牧訪問地として 政治的には目立たない国、経済的には貧しい地域を選んでいますが、神の福音の喜びを伝えるために市民生活からはみだされた人々に近づいたイエスの行動を思い起こさせます。
主に喜ばれる道はどの方向にあるのでしょうか?
他者の弱さを我が身に照らして、主に立ち返る信仰はどこに見えるでしょうか?
集会の時、聖霊による声を聴き入れられるように、マリアに取次を願いましょう
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