年間 第十八 主日       2014年8月03日

主は言われる「渇きを覚える者は皆、水の“ところ”に来るがよい
        銀を持たない者も来るがよい。」(イザヤ55章)

    日々、その日暮らしに者にこの言葉はどう響くでしょう?




聖書の世界は水を巡る生活です。井戸はまれにしかなく地域住民の命の綱で、雨水をためても足りず、夜露は作物のためでした。

 “水のところ”とは、極めて象徴的で創造主の元に来なさいの意味です。
“銀を持たない”とは収入のない苦しい状況に追い込まれている人々のことです。

「金欠病の人に神のところへ来なさい」と預言者は“何故”呼びかけるのでしょうか。
背景には本来の律法(主の掟、詩篇1参照の教えがあります。
 戦乱前のシリアへ旅行した時のことですが、レンタカーのドライバーは側に来る物貰いに必ず小金を上げていました。理由は簡単でした。自分は仕事ありお金も入るから。
  「弱い人を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる(箴言19:11)」。
  「弱者を虐げる者は造り主を嘲る(14:31

  「与えなさい。そうすれば 与えられる(ルカ6:38)

 こうした神の福音の精神を聖パウロは神化せました(Uコリント9:6?14)。

 「・・・喜んで与える人を神は愛する.・・・その人は惜しみなく分け与え、貧しい人に施すその慈しみは永遠(詩篇112:9種を蒔く人に種を与え、それを増やし、慈しみが実を結ぶ。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは(主の教会)を通して神に感謝する念を引き出します」。神の名においてされた愛を忘れることはありません(ヘブライ人への手紙6:10)。

 アブラハム以来 聖書の世界の人々は「水」はユダヤ教のトーラー(律法)では「神のことば」を指していました。
 そこに来れば無償で食べられるとはどんな意味でしょうか? 日々の糧は貧富の格差なく分かち合うことが当時の律法の教えでした。が、共同体組織が複雑化してくると「エデンに潜んでいた邪な考えを持つ者」が現れてきました。けれども、前述のような善良は市民もいます。

 現代の日本でのカトリックの役割の一つに 地域社会での“水の飲み場(『福音の喜び28番』)となれる可能性が残っています。
 「他人に求めることは、まず自分自身で実行されなければなりませんので、わたしも教皇職の回心を考えなければなりません『福音の喜び32番』」と言われています。

 “水飲み場”の教会は、霊的分かち合い、安らぎと祈り、祈りと平和の空間をつくることではありませんか。
 パンが増やされた奇跡は贅沢な食卓よりの喜びのテーブルとなるようにとのイエスの願いでしょう。『福音の喜び3』は聖書を読むよりも身近です。今日もミサ後 様々のご質問に答えます。
     どうぞ、ホールにお集り下さい。