年間 第十九 主日       2014年8月10日

 8月6日 主の変容の祝日 広島原爆投下? 9日 長崎浦上天主堂原爆で破壊 ?1945年8月15日 大東亜戦争終結ノ詔書」が昭和天皇の生の声で放送される。
 1950年 ピオ12世 聖母被昇天を教義宣言される

       「信仰薄いものよ。なぜ疑うのか!」(マタイ14:31)

   ミィーン ミィーン ミィーン ミィーン ・・ヒグラシの声で目を覚まされる朝
   蝉の声は また あの日の忘れたかのように力強い
   あの光は蝉の声も殺したのに・・・・ 呻きか・・・ 驚愕か・・・ 

 8月6日は人類史に記された祈念日
 人々は、もう、平和を待ちくたびれています。
 8月15日 国民学校入学前の夏、蝉の合唱の中で 玉音放送を聞きました。

 キリストによる平和の未来をみて、洗礼を受けた頃、自分勝手に絵に描いた餅のような教会像がありました。そのイメージは教会協同体の中で拡大すると同時に組織に拘るようになりました。神学校時代、型に嵌め込まれる怖さを自覚する時もありましたが、第二バチカン公会議の開催は初心の夢を切り開いてくれた思いがあります。それは、今も続く果てしない希望です。信仰は常に新しい朝を迎える喜びを差し出してくれます。

 カトリック教会/信仰は、イエス・キリスト以来 2千年を超えて一人ひとりの生“と生活の苦しみに寄り添いながら神の福音を語り続けています(福音の喜び、238番参照)
 数奇な運命を歩んだ預言者エリアは政治的の権力には「祈りの力」で勝ちましたが、世俗の王権により「生きる道」を阻まれ、逃亡中 生死の狭間を彷徨っていたある朝、 主が通り過ぎる不思議な体験をしました(第一朗読参照)

   
「主の御前に激しい風が起こり 山を裂き、岩を砕いた。
   しかし、風の中に主はいなかった。その後 地震が起こった。
   しかし、そこにも 主はおられなかった。次に火が起こった。
   しかし、そこにもおられなかった。
   その後 静かにささやく声がきこえた」Cf、ヨブ4:16 詩編46:1165:2, 145
      
      主の声が聴こえれば、争いは終わるでしょう。
      しかし、主は 嵐、地震、大火災(爆発)の中にもいません。
 
  戦いは死を招く。 死は恐ろしい 死はすべてを滅ぼし 生命を抹殺する 
  だが、人の欲は強く 自分を駄目にし 他人を潰す しかし、人間は。
 
 その日、イエスは、パンを食べて満腹した群衆を解散させ、自分は山に上って祈っていた。イエスが山にいる頃、弟子たちは仕事に出た。
  その時、逆風が吹いた。弟子は怯えていた。イエスは悠々と湖上を歩き、嵐を治めた。(今日の福音 マタイ14:22?33
      深い悲しみと絶えない痛みの中にあっても、
      聖パウロは万物の上におられる神、キリストを讃えています(ローマ9章)。

  戦地に散った魂の叫びです。

  勝利の者も喜びのない声を上げます
  痛みを知りながら どうして人は戦ってしまうのだろうか・・・

 エリアは、王の命令で雨乞いの祈りでバール神の預言者に勝利を収め、敵を皆殺しにしたと聖書にあり(列王記上18章40節)ますが、文字通りに読む記事ではありません。
旧約聖書には幾度も戦いの話がありますが、それは、偶像崇拝の空しさを知らせるためです。

    偶像を考えつくことから姦淫が始まり、偶像を造り出すことによって生活が堕落する。
    偶像は初めからあったものではなく、いつまでも続くものではない。(箴言14:12)

 戦いは真実を知らない無知の心に生じますが、創造主である神を間違った心で礼拝するので悪事の中に平和があると思い込んでいます。こうした神の愛を拒み続ける悪事を終わらせるために、聖書は主である神を全滅させると書いています。いわば、当時の語り方ですから、読み間違いなえように、悪事を甘く見ないために警鐘です。

  預言者エリヤは雨乞いの祈りでバール神の預言者に勝利を収め、敵を皆殺しにしたと聖書にある(列王記上18章40節)。文字通り解釈していいのだろうか?
 そうでないなら、何故 このような文言を使うのだろうか・・・。
 人間は真に厄介な生き物になったしまった。ここで換気しなければならない現実がある。聖書の目的は世界を喜びに道に招き入れることであるから、主の計画、望みを反することを無くすことです。紀元前10世紀頃は、未だに偶像礼拝、多神教の世界です。 エリアとバール神の預言者との祈りの対決自体が前代未聞の出来事ですが、時の王がこの対決を認めたのは何故だろう。エリヤの敗北を前提、神が介入するはずが無いと決め込んでいたからではありませんか。主である神などいるはずがないと。


 ソロモンの死後、全パレスチナは、北王国イスラエル南王国ユダとなった。ソロモンの子レハベアムは、全パレスチナの統治を望んだが、北部は肥沃な土地であったので、北部の長老はそれを望まず、エジプトに亡命していたソロモン王の武将であったレハベアムを王としてイスラエル王国として独立しました。ソロモン王国は分裂し、南王国の領地はエルサレムと砂漠地域になりました。“南北問題”の発端です。
 ソロモン直系の王はイスラエル奪還を試みますが、成功することはありませんでした。
 一方北王国は、王位継承の争いが絶えない中で、当時の大国シリアの驚異に晒され続き、遂には、フェニキア王の娘を王妃とし、ツロにバール神殿を建て、アブラハム・モーセの伝統は破壊されそうになります。その時、エリアがバール神(豊穣神)に反対して立ち上がります。創造主である神と大昔からある豊穣神を礼拝するかの政治問題となり、王側は豊穣神の占師(預言者)を、エリアは一預言者として雨乞いの祈祷大会を開きました。エリアの勝利に終わりましたが、兵隊を持たないエリアは殺されそうに成ります。逃亡の果ての出来事が「今日に第一朗読」です。
 万軍の主が雷鳴、地震をもって、大音響、強風、焼き尽くす炎をもって、お前を訪れる(イザヤ29:6)

       毒麦の喩えは何を示しているでしょうか
 畑のオーナーは云いました「収穫時まで待ちなさい。良い実も間違って抜いてしまうかも知れないから。」
 なんとすごい、洞察力と決断力でしょう。並の人には無理でしょう。
 神の霊は人の心を見抜いて弾劾するよりも、むしろ、意思の弱い人、存在の目立たない人、世では忘れられている「存在」を引き上げることです。
 仮に神に敵対するものでも、安易に人の目線で判断できません。
 善悪を裁ける方は主である神のみです。この畑のオーナーは神の心を持つ人です。
 だれが神と同じ心になれるでしょうか・・・。

      聖書の喩えは「天地創造の時から隠されている神の意志」を明かします
 イエス・キリストほど人々に理解されなかったにも関わらず、多くの人々に救いの希望を与える方はいません。 直弟子のペトロ達でさえ、当初は、復活されたイエスを認めることが出来なかったのです(ヨハネ福音書20、21章)。イエスの喩え話も理解するには至っていなかったでしょう。

    喩えは、神の国を信じる「者」に「時が来たこと」示される啓示です
 掲示板に書けるような文字のお知らせとは全く質の異なるものです。
 「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が寝ている間に、敵が麦の中に毒麦を蒔いて出ていった。芽生えると毒麦と分かった。」
 この喩えの意味を知るために天地創造の話を思い起こしましょう。

 創造主は 第1日に光を創造し、第2日に 水と水を分けて、空を天と呼ばれました。

      第3日に、陸を海と分け、その地に種を蒔かれて、
        それぞれ種を持つ果樹が生じました。
        それを見て「よい」と思われました。
  良い種は、神から祝福されていますが、創造の話には毒の種は語られていません。
  毒の種は神の敵によるものでだからです。では、神の敵とは何でしょうか。

 神の敵が何か簡単に見分けられるなら、誰も苦労はしないでしょう。悩みも心配事も真実が見えないので心の負担となります。

    イエスの喩えは心の闇に閃く稲妻のようです
 “霊”の働きは幻想的に長時間続く幻影ではありません。魂が揺り動かされ、心が動く瞬間です。
 神は良い世界を造られました。良い畑に、良い種が蒔かれたのですが、いつか毒が現われるのは、神の心から離れてしまった人の心かもしれません。いつまでも回心を待つ神の愛の話、これが「神の国」の喩え話です。
       良い種は「神のことば」とすると、毒麦は何でしょうか。