年間 第二十三主日               2014年9月07日

          「きょう 神の声を聴くなら・・・ 」(詩篇95編7節より)

  黙想のため当別のトラピスト修道院、伊達紋別のカルメル会へ行きました。熊の出没のために一人散歩は残念なことにできませんでしたが、もし出会ったら、どう動くでしょうか・・・。予期していても身の危険に遭遇した時を想像するのは意味があるかも知れません。

  「ミィーン ミィ」と突如蝉の声が止りました。生物は危険を察し、咄嗟に動きを止めます。自然界の変動は小動物にも現れるのでしょうか。“ッチィ~・・・”鳴く虫の声が安らぎとなる夜ですが、“自然界はおかしい”のでしょうか。異常気象の原因は温暖化だけでしょうか? 人間中心主義の文明の中で人の心も変えられています。神の声は永遠のはずですが・・・。
  「あなたが悪人に警告し、その人が悪の道から離れないなら、しかもその人が自分の罪のために死んでしまえば、血の責任はお前にある」と、預言者は主から言われ、エゼキエルは神の家の見張り番として神の創造の目的を知らせ、神に背く悪に立ち向かいました。

        主の前に 立ちはだかる悪とは何でしょうか
  第一朗読(エゼキエル337—9は「悪人よ」と、主の教えを聴かない人々の死(滅び)を大胆に語ります。捕囚の一人としてバビロンに(バビロンの捕囚BC586-538いる司祭として王に向かい「お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる28章」」と言い、イスラエル(神の家)の見張り番として預言者の勤めを果たします。

  悪に向かって正す勇気ある者が、今も、永遠に生きている預言者です。その言葉は「神の意志があり真実」として、「キリストの福音」の源流だからです。神の福音は固定された文字ではなく、歴史に残る神の業(働き)で、耳には聞こえなくとも、心に響く主の声です。ここにこそ、現代でも読まれ続ける「聖書の価値」、朗読される「聖書」の真価があります。

  きよう 神の声を きくなら 神に心を閉じてはならない。心は開かれるから(詩95

  “悪人”とは、神の声に耳を傾けない“こと”、主の声を聞き入れず、聴こうともしない心と頭です。それは自分の身体の中にあります。感情を押さえられない時、知性でこれが正義と思い込む狭さなど主の教えと真偽の狭間で悶々となる心と頭です。

  頭ではOK・・、心ではNO・・。自己内対立と分裂です。本当の隣人は他人より先に、自分自身の内面にあるようです。二心で生きる自己と、主に向かって自己統一へと回心に招かれている自分。隣人へと枠が広げられる分かれ目はここにあるのではないでしょうかローマの教会への手紙13章)そのとき、働く恵みが福音です。先ず、自己との和解、日々の心の方向転換、心の奥に根付く“狭い生命への執着心”から解き放される喜びに心を回転させましょう。その鍵は秘跡として信仰の協同体である教会に託されています(アレルヤ唱)
 他人に求めることは まず自分自身で実行しなければなりません

 わたしも教皇職の回心を考えなければなりません。参照:福音の喜び」32番、38頁 

 預言は回心を求め、未経験の事柄への対応力、新たに生きる知恵の道/命の価値を示します。