年間 第二十五 主日 2014年9月20日
「天の国のたとえ」(マタイ20章1−16 |
聖書の教え・イエス・キリストが伝えたい事柄、「福音」は”おもて“には見えません 朝の一番電車、今日一日もしっかりと働きに出る姿が見えます。多くの人がひたむきに生活する光景があります。イエスはこのように、ひたむきに生きる人々の、それぞれの環境や心情を察しながら、「神の国の福音」を話されたのです。 今 助けを要する弱者、心に虚しさを覚えている人、楽しみ・快楽・利得・名誉を望んでいる人とその心、人生の喜びを求めて、各人各様の思いが変わることはないでしょう。 イエスの前に立ちはだかる力と人間の複雑さ イエス・キリストの存在を訝しく思うもの、律法学者・ファリザイ派など、伝統に拘って身分や地位を保とうとするグループがありました。その上、帝国主義のローマの官憲を刺激しない知恵もイエスには求められていました。 イエスの「たとえ」は人の考え・知恵を超える「単純で奥の深い真理」 優れた文学作品には人の心を動かす不思議な魅力があります。身近なテレビドラマも 人の心の想いを喚起するものです。自分を慰め、共感を覚え、自らの歩みを肯定し、少なからぬ喜びを感じさせる「何か」が、人生の軌跡に相通じる光景があります。 ところで 天の国は「どこに」ありますか。イエスは「地図」に記しませんでした。 一人ひとりの胸のうちに刻みました。しかし、人の関心事は、食べる事・着飾る事・飲む事などに思い煩い過ぎてはいないでしょうか。福音は見えず・まだ聞こえない神の国を指し示す教えですから“たとえ(噺)”で語られました。 それを指し示すシンボルが十字架です。そこに人の姿があります。ですから、聖堂は人の姿を象って、平面は横になり、天井空間は縦に立ち上がらせているのです。 神の国は十字架の中に |