年間 第二十七 主日 2014年10月05日
「永遠の愛の歌の譬え」 |
自然界には驚くべき力・脅威があります。人知を超える営みや未経験の事を語れる人はいません。自然災害の続く昨今ですが、正確な予知はどこまで可能なのでしょうか?“探す”、捜索は命がけの働きです。この世の最高の働きですが、犠牲心と使命感なしにはなしえません。 「親の子を思う愛」を、預言者イザヤは愛する者のために葡萄畑の愛の詩として歌います。 しかし、“親の心子知らず”と諺にあるようにイザヤの詩も似ています。子供が親を「自分の親と知るまで誕生後、数年かかるように、人類が創り主を知るようになる迄の宇宙の誕生と進化の歴史を見れば、ずっと後世の事です。人類の創造・誕生は約200万年前と言われますが、人が“いと高き神”、偶像ではない神々の主を知ってからこれまでは数千年です(創世記14章19節)。しかも、聖書によるこの情報は人知では確認されていません。それも無理からぬ事、人生は100年足らず、宇宙の生命の営みからすれば、束の間です。 歴史を振り返ると、人の思いと創造主の望み・計画・計らいはかなり離れているようです。預言者は、この神の創造の思い・願いと人々の願い・思いの格差を歌っているのでしょう。 親・畑のオーナー・創造主は、手厚い世話をしたつもりなのに「酸っぱいぶどうが 何故 実ったのか」と嘆きます。しかし、失望のままでは終わりません。「神は、ご自分がなすべきことで、何かしなかったことがあろうか」と自問します。(ここにこそ、聖書の特質があります)神の嘆きは新たな計画の始まり・回心のスタートです。 それに応える詩が詩篇80です(答唱詩篇参照)。 「主は ぶどうの木を エジプトから移し cf、モーセとその民(出エジプト) 他の民を退けて そこに植えた cf、イスラエルのカナン地への入植(士師記) まわりが 耕され cf、サムエルから王制へ(サムエル記) その木は 根を張り おい茂った cf、サウル王からダビデ・ソロモン(歴代史・列王記)」 理解を助けるために右端に旧約聖書の関連箇所を記しました。このように譬えの意味を探るために関連付けるだけでは、“神のことば”から離れてしまいます。聖書の譬えは基本的に隠喩です。文字と文言を超える不思議な意味が隠されています。 イエスと祭祀長や長老の問答、譬えの中の主人、見張り、農夫、僕らの関係や繋がりは何に喩えられているのでしょうか? 葡萄園のオーナー、農夫、僕たちの関係、主である神・預言者達と長老や祭祀長・僕たちと息子は何を象徴しているのでしょうか? 息子はイエス? 主人は神、葡萄園はイスラエル・ユダ、垣は国境、搾る場は神の国、僕たちは預言者、息子はイエスと当て嵌め、農夫たちは祭祀長・長老とすれば分かりやすい譬えとなります我・・・。しかし、マタイは更に「家を建てる者の石は捨てられ、それが隅の親石となった。これは主が行われる事で、私たちの目には不思議な事」と続けています。「神の国は あなた達から取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民に与えられる」とは、「どこで誰に」与えられたのでしょうか? 救いから外される民と実を結ぶ民とを区分けして解読するだけでは福音とはならないでしょう。神の福音は敵にも神に背いている者にも救いの道を開いているのですから。 |