箴言31章10節(有能な妻) — マタイ25章(タラントンの譬え) — 1テサロニケ2章5節(光の子)
朝ドラに“後添え”という用語が出てきます。後妻と言わず、後添え、と何故使うのでしょうか。妻を亡くした後に入る新しい妻を“後添え”という時代があったのでしょう。用語、言葉は時代と周辺環境によって「分かりやすい」言葉があるものです。
聖書の用語も同じです。今日の第一朗読、箴言はソロモンの格言と呼ばれていますが、語源は列王記上4章30—32節に 「神はソロモンに優れた偉大な知恵と洞察力を授け、彼の知恵は当方の諸国(主に現在のアラビヤ文明の地域)の知恵に優り、史上最も優れた人物とされ、三千の格言を語り、一千五百首の詩(うた)を作った」とあります。これはソロモンが全部創作したとの意味ではありません。ソロモン(BC972−933)王の偉大さを示すことで、重みを増そうとする当時のテクニックです。
「有能な妻」について言えば、「すぐれた婦人(女性)、善い妻、しっかりした妻」、英語のThe Chatholic Study Bibleでは、表題はThe Ideal
Wife で本文では a worthy Wife です。
こうした説明は通常はできません。それゆえ、日常表現として使用する際の「翻訳用語」は慎重に使うはずです。聖書週間の主旨もここにあるのでしょうが、浸透するには長い年月がかかるでしょう。それを忘れることは 神の啓示を忘れていることになるのではないでしょうか。
では、典礼で読まれる朗読聖書と書物となっている「聖書」とは、何が違うのでしょうか?
簡略して言えば、文字、文言となる前の神の啓示を重んじ、信仰によって伝承された「神のことば、信じる人々の胸に刻み込まれた聖なることば(Sacura Sucriputura)」と、学者、長老らの恊働作業によって編纂された「聖書」との差があることです。書かれた文書には、それなりの真実性がありますが、解釈する者によって理解が違うのは当然でしょう。
教会は聖書の文言を単独で使う際には、極めて慎重に基準をもうけています。具体的に言えば、「教会の祈り」には神のことばと記されて、聖書の数節が読まれます。
例として第一主日、前晩の祈り(前日の土曜日)には
「おお 神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは悟り得ず その道はきわめ得ない。
誰がその想いを知っていたのか。だれがその計画にあずかったのか。また 誰が まず
主に与え その報いを得たのか。 万物は 神から 神によって 神へ。 栄光は神に アーメン」
「神よ あなたの想いは計り知れない。」と先唱が唱え、皆は「あなたのわざは偉大」と答えます。
ここには、人間的感情も哲学的真理、つまり、人の解釈もありませんから、誰にも当てはまる信仰による 神のことばのみ です。
それでは、今日の典礼上のメッセージ、福音は どこに在るのでしょう・・・
聖書は、本来 主である神と人(男と女)の“いとなみ”(エコノミー)ですから、一般の夫婦関係と結べないはずです。主の前にある人、父である神との関わりとすれば、有能な妻、主の福音に応える者、つまり「信者の集いである教会」となります。
教会には多くの様々な富があり、タラントンは神からの恵みの様々の形体を指しています。
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