死 者 の 日             2014年11月02日 

                ―  死者のために祈る人間  ―

 愛する人の死は残される者に消して忘れられない悲嘆を心に刻みます。必ず死に臨む人間にとっては永遠の*神秘です。  * 神秘:人間の手を超える出来事
 もう、今はいない故人と結ばれる道は、目に見えず、会えないけれども「どこかにいる」という期待です。その場は黄泉、冥土、蔭府など文化によって様々の名称で呼ばれます。

 旧約聖書には、死生観についてその時代の庶民の考えが多数みられます。
 滅びの穴、穴の底、声のない所、滅びの場、忘れられた忘却の地、闇など、創造主への感謝、賛美、希望など光を見られない悲しみと痛みが強調されているようです。これは決して聖書の本音、神の思想ではありません。その時代、土地の文明・文化の枠の中での理解です。むしろ、聖書は死後の世界観に振り廻されず、故人との深い絆を伝承しています。
 ダビデは自分の命を狙う敵の死をきいた時、「衣服を裂き、粗布をまとい、痛み悲しみました」(Ⅱサムエル331節)

           アブラハムの死生観
 聖書というよりも神の啓示の物語のルーツは創世記にあります。創造主である神は弟アベルを殺した*カインを園から追放しますが、彼の地で生活できるように皮の衣を着せます。
      *これは史実ではなく、創造主である神の愛のメッセージです
 太祖アブラハムが未だ、さすらいの旅人であった時、暑い真昼に天幕の前に座っていると、3人の旅人が目の前に立っていました。それを見た彼は旅人に一宿一飯のもてなしをしました。その時、その3人の旅人はアブラハムに子が授かると約束しました。そして、その人たちは見送りに来たアブラハムがソドムを見下ろす地に立つと、ソドムとゴモラ(当時の国)の滅亡を予告しました。それを述べる文言は「主が言われた」と旅人から主へと*主語が代わっています(創世記18章)
      * 聖書の文言は極めて曖昧で文法も論理も自然科学的には理解不能の側面が無数にあります。

           妻サラの死を悼むアブラハム
 妻に先に旅立たれたアブラハムは未だ、さすらいのアラム人だったので、サラを葬れる土地がありませんでしたが、先住民のヘテ人の好意で銀400シェケル(1年分以上の日当)の土地を譲り受け、そこにサラを埋葬しました。そしてアブラハムは静かな老年を迎え長寿を全うして亡くなり先祖の列に加えられました(創世記23−25章)

           主から離れたと思われる者のために祈るユダ
                     (Ⅱマカバイ記1238節—45節)

 戦死者の遺骸を埋葬している際、遺骸に隠されていた偶像の印を見た時、贖いの犠牲を捧げ、彼らが復活の命に導かれるようにと祈っています。
 このように聖書の死生観は狭い人間的心情を超える世界に開かれています。
           イエス・キリストの十字架は身体的死を超える神の愛です
       人には救う力はなく(詩篇146)目を上げて 山々を仰ぎ
        わたしの助けはどこから来るのでしょう・・・と祈るのみです(詩篇121

 1 そのとき 主において   あなたは変わる新しく 
             恵みを受ける園に蒔かれた種が芽生えるように
 2 〃            すべては代わる美しく
             流れの畔に植えられた木が花を咲かす*時のように
 3 〃            すべては変わる喜びに
             いのちの幸せ溢れる喜び 永遠の命のことば (詩篇1参照)
    *
とき(カイロス):時刻の意味ではなく、大きな力の注がれるアメイジング グレイス